“テープ・レコーダー”が我が家にやって来た。
直径10センチほどのプラスチックのリールにフィルムのように幅1センチ程の
磁気を帯びたテープに回転させてマイクで音を拾い記録する優れもの。
中学2年14歳の1969年には新開発のカセット・テープもそろそろ発売されているが、
まだ見た事がない。本格的にカセット・テープが大ヒット商品になったのは“ラジカセ”が
発売されてからなのだ。(このラジカセにも思い出が)
とにかく録音が出来るのでラジオやTVのスピーカーに付属のマイクを近づけて
好きな曲をどんどん録音していました。
この頃の日本は高度成長期で、来る来年の1970年にはアジア初の「万国博覧会」が
大阪で開催。俗に言うところの「バンパク」だ!
でも中二の僕だけでなくまわりの大人も「バンパク」って何? でしたが。
この1969年のヒットしたフォーク・ソングは「白いブランコ」(ビリー・バンバン)、
「時には母のない子のように」(カルメン・マキ)、「フランシーヌの場合」(新谷のりこ)
他にも数多くの曲がありますが忘れた。
この時期はすごい勢いで女の子に人気のあったGS・・・“グループ・サウンズ”の人気にも
とうとう陰りが出始めていた頃。“エレキ・ブーム”の終焉時期だが、海の向こうでは“ロック”
から“ハード・ロック”が誕生し後に世界を座席する。
万博の年1970年はあの「戦争を知らない子供たち」。
ラジオの「ヤンタン」の姉妹番組がTVの「ヤング・オーオー」。それまでラジオで聴いていた
フォーク・ソングがこの番組によって唄っている姿も見れるようになり好きな曲が唄われて
いる時はブラウン管に目を寄せてその曲のコードをメモ。
コードをメモするのはラジオで覚えて適当にコードを付けるが、そこはまだギターを弾き出して
ほんの1、2年ですのでええかげんなのでコンサートで舞台で唄っている人の手元を見てメモ
を取ったり、TVで見て覚えたアナログ時代。
ただ続々と新刊ラッシュされてきた音楽雑誌で曲のコードも載るようになり助かりましたが、
肝心のレコードは、その曲がヒットした後に発売されるペース。もちろん45回転のEPシングル盤で、
アルバムが収録されたLPはも少し後に“売れるレコード”の中心になる。
とにかく自分の部屋で録音が出来るテープ・レコーダーを自由に使えるようになった
中二の春。
最初に録音したのは近くに住んでいた“ほんの少しギターが弾けた大学生”に
チューニングしたギターの弦の音。
でもこの頃のテープ・レコーダーの回転なんてええかげんなので録音してもらったのを
聴いて音を合わせてもグチャグチャでしたが。
(≒続く)まだ。
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