幼い我が子にただならぬ音楽的才能を見出した父レオポルドが齢5歳になる息子モーツアルトと
初めての旅に出たのは1762年の1月12日の寒い冬の日。
生まれ育ったザルツブルクから24日間をかけてミュウヘンへのバイエルン選帝侯マクシミリアン三世へ
の接見(売込み) と、各地で高名な音楽家に音楽理論、作曲論等を息子モーツアルトに学ばせる
ためであるが、この先も続く父と姉ナンネル(マリア・アンナ)、母との家族での旅の最終目的は息子
モーツアルトが大国の宮廷で楽長の座の地位を得て将来においてモーツアルト家の生活の安定の
ためであると云われています。
しかしこの天才アマデウス・モーツアルトの生きた35年10ヶ月と9日の生涯で10年2ヶ月と8日にも
及ぶ長い旅にもかかわらずこの夢は残念ながら叶いませんでした。
これはモーツアルトの人生の28.4%を旅した事になるのですが、18世紀当時の「旅」は今のこの時
代からはなかなか想像出来ない過酷なものだったと思います。
現在、旅行に出かけるとすれば、まず旅行会社などのカウンターで旅先のパンフレットをもらって参考に
するか、ネットで検索して行きたい目的地を決めて宿泊先の旅館やホテルの予約を取り、自分で車を
運転するならカーナビなどで道順などを前もって知る事も可能だし、バスや電車、船、飛行機などの交
通機関を利用ならチケットも簡単に購入出来る便利な時代です。
それではモーツアルトの生きた時代では具体的にどのような「旅」だったのでしょうか?
モーツアルトの家系には音楽家はいなくて父レオポルトが突然変異のように現れました。
もともとの家業は製本業を営む職人の家系だったがこのレオポルトは幼い頃より秀才の誉れが高く、
物心がついた年齢に達すると今より良い暮らしをするために優秀な成績で大学に入学し(成績優秀
なために授業料の三分の二を特典で免除された)将来において地位のある仕事に就く考えであった
ようです。
しかし封建社会の中で身分世襲制の貴族でもない限り行く末は知れたものだと悟り、家柄など関係
のない実力があれば出世可能な宮廷の楽師の職に将来を見出しました。
レオポルトはヴァイオリンの名手でもあったのですが音楽理論、作曲論、演奏法等これらを誰かについて
学んだ記録は見当たらず全て独学で習得したようです。
やがて大学を自主退学しザルツブルグ宮廷楽団の副楽長の地位の職を得た後には18世紀の三大教
則本と評される『ヴァイオリン基本教程試論』をも著しており、このモーツアルトの父レオポルトもただならぬ
音楽の才能の持主であったと思われます。
では話を戻してこのモーツアルト親子の実際の旅ですが、
まず近隣諸国の王侯貴族に幼子モーツアルトの卓越した演奏を目の前で披露させ名前を売ることから
始まるのですが、一介の楽師であるこの親子がいきなりその地の宮廷を尋ねて接見を申し出ても会うは
ずがありません(ザルツブルグ宮廷楽団の副楽長であっても身分的には決して高くはなく、また他の王侯
貴族からは他人の使用人くらいにしか見られなかったようです)。
そこで『紹介状』を地位のある人物に書いてもらいそれを携えて旅に出るのですが、この『紹介状』を書い
てもらうために多くのお金が必要であったそうです。
そしてその前に地位の高い人物なら誰彼なく会えればいいのではなく、宮廷に楽師を持ちそして音楽にも
深い造詣と理解ある人物は誰か、そういった情報を集めるのにも大変であったはずです。
いよいよ訪問先の王侯貴族も決まり『紹介状』も準備出来たとして次は移動手段なのですが、座席を
持ち人が乗れる馬車を所有しているのは裕福な王侯貴族のみで、この時代の庶民の移動手段は徒歩
か荷馬車に便乗しかなくモーツアルト家族もこの方法です。
この時代の「荷馬車」は近隣の国中を定期的に手紙などの郵便物と商人間の荷物の運送と4人ほど
ならなんとか乗れる民間業者の定期便の馬車で、西部劇によく出て来る駅馬車か今なら宅配便トラック
に近いと云われています。
ただし乗り心地においては最悪でクッションのない硬い木の箱に座っている感覚。そして舗装されていない
当時の悪路を何日も乗り続け、また夜中の森や山道では盗賊に会えば殺される危険も大きく、現在では
想像もつかないほど大変なものだったと思われます。
そして目的地までの旅の途中で泊まる宿。
もちろん現在のように前もって宿の手配なんて出来ないし「2階の何号室にお泊り」のような個別な部屋
ではなく他の旅人との相部屋が常識で、トイレも洗面所も共同で使用するのが当たり前で、姉や母親など
女性にはさぞ辛いことだったと思います。
しかしもっとも恐れることは、水や食べ物に起因する衛生状態の悪さで、この時代は悪疫が常に流行
しており旅先でもし病気にでもなれば死を覚悟しなければならない状況でもあり、実際にモーツアルトは
6歳から16歳までに天然痘、リューマチ熱、腸チフス、A型肝炎などを患いながらも奇跡的に生き延びたのです。
そしてこれらの疾患が原因なのか、彼が成人の年齢に達した時の体格は発育不足でもあったようです。
1756年1月27日に生を享けたモーツアルトは7人兄弟の末っ子。五つ違いの1751年生まれの
三女ナンネルのふたりを除いて他の五人の兄弟は生後まもなく他界。そして、やはり人並み以上に音楽の
才能を持っていた姉ナンネルの奏でるクラヴィーア(ピアノの前身)の横で3歳になったモーツアルトは自分の
小さな手で奏でる3度と6度の響きに恍惚の表情を浮かべていた・・・。
(中野 雄著『モーツアルト 天才の秘密』を参照させていただいています)
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